39~68~46kg その間に

欝までの、欝からの「自分を愛せ」るか。

親子の形。(母と私は)

先日記したように、自営業している次男(私とは絶縁、母とのみ交流)が、

自営業だけではたち行かず、

ようやく仕事を探し始めたのですが、

無事に面接まで行きまして、その後研修に入る様子です。

それこそ先日記したように、

私は毎々、

次男の何かの纏まった税金やら督促の度に、

何故か私たちの母親が、

私にお金を借りようとするのが、

堪らなく嫌でした。

 

 

必要なのは兄の筈、

兄の車のため、

兄の猫のため、

兄の固定資産税のため、

と、

私の母が矢鱈率先しては、

 

「次男が大変だ、次男が可哀想だ」 

 

と、言うのを聞かされるのが堪らなく苦痛でした。

 

 

自営業とはある意味で一攫千金だと私は思っています。

それは父親がそうでしたから、自営業については

だからこそ、

自営業の人とは一緒にならないと幼心に決めていたものです。

私の父親は自営業の儲けを隠しては酒ばかり飲むし

自分だけがお腹一杯食べたいし

子供は嫌いなくせにスケベで

タバコも止めない、

テレビは独占したい、

母親が外に出るのを嫌う独占欲の塊の癖に、

家族を養う甲斐性も堪え性もなく、

主に自営業になったのは、

現金の入るときには実入りが良く

早寝早起きを毎日しないで済む上に、

愛妻弁当は大好きで(自慢したいだけ)

晩酌は夕方五時からと決めていたからです。

人様がようやく仕事が終わりそうなときに、

父親はもう呑み始めて居たわけです。

 

家に居る滞在時間が長い癖に

在宅ワークするでもなく

但遊んで飲み食い吸いをしている父親が

毎日長々テレビや居間を独占するのです。

 

その上、

二言目にはおかずが足りない、

お金は無い。

 

母親が窮状を訴えても、

「二言目には金しかないのか、お前は。」

と、怒鳴り付け、

母がつけた家計簿(みたいなもの)まで意に介さなかった様子でした。

こんな現実があり、

私達兄妹らは給食費さえ定期的に払えず、

学校指定の絵の具や裁縫箱を締め切り迄に支払えないので、 

皆と違う文具の自費購入(必要になるギリギリまでに漸く購入する)など別段珍しくもなかったんですよ。

そんな親の姿と母親の苦悩さえ視ていた筈の、母親の期待の次男が自営業で。

それが定期的に母親を介して私にお金を頼まれる度に、(頼むと言うより、母の善意で私のお金を借りようとする度に)

 

私達の父親と同じで、

自営業だから時間が有る筈なのに

何故余った時間でコンビニで働かないのか?と

思っていました。

この兄は良く、

「やろうと思えば、俺は明日からでもマグロ漁船に乗る」

と言ってましたが、

いえ、もう10年は前の話ですけどね(笑)

その、明日からでも、とは何時なんだ。

とも思っていました。

10年以上有りませんでしたけど(笑)

この兄は五十代入ったばかりの、

毎日ウォーキングしてバキバキに筋トレして立派になった身体を、

何故有効につかわないのかと。

今が1番男盛りじゃないかと。(実際にはあと五年半は前倒ししても善かったのに)

 

時間さえあれば、

確かに人はバキバキのムキムキに鍛えられます。

あくまでも、その意思があればです。

その点は結局私たちは兄妹です。

お互い一年半以上費やして、

私はダイエットに成功し、兄は鋼の身体を手に入れたわけです。

しかし、逆に時間は確実に犠牲になり、兄は困窮し、それを見ている母は兄の心配ばかりしていました。

私が困窮しなかったのは、

貯金と、パートナーの私個人への生活費が毎月頂けていたからです。

パートナーは、私の会話から、私の自殺から、私の母と兄との関係を見抜いています。

故に生活費は私にのみ渡されています。

母の分は兄が稼ぐべきだと割りきれています。

その理由については後述致します。

私達兄妹は

それぞれなりたい体つきには

なったわけですが、

 

私は仕事を退職し、しばらく休み、薬を大量に手離せるようになるまでひたすらダイエットに一年半を費やしましたが、

私が仕事を休んだのは結局その一年半の期間のみで、

今もその前も私は働いて稼いで、自力やパートナーの力で旅行したりしていた訳ですが。

兄はパートすら副業に手を出す素振りがなく、今に至り、

結局私とは疎遠になり絶縁になったのです。(ここは厄介ですので詳細はいつか、また)

少なくとも10年前くらいは優しい兄でしたよ。(笑)

 

 

さて、親子の形でしたよね。

 

母は末っ子で女である私を確かに愛していましたが、※母は女の子が欲しくて堪らなかったから。

実際に1番気が合うのは次男であり、

成長した次男が今よりずっと若い頃、とても固い職業に一時期就職しまして、

何回も里帰りの度に母親にお金を渡したり送金していたのを今でもキラキラと私に語ります。

やはりお金は大事でした。その頃私はまだ学生でした。家は貧乏で私では母は救えませんでしたから、次男がくれるお金は尊かったでしょう。

しかし、そんな次男が今より28年以上前に

バツイチ子持ちに騙され(まさしく騙された、これについても詳しくはまた、いつか)

家を出て逃避行した末に絶縁となり、

 

長男や三男は結婚していたので、

家庭は自営業の屑な父親と私母だけになりました。

私はその時は高校生卒業したばかりだったですね。

横暴三昧になりつつあった御せない父親相手に酷く辛い毎日でした。

そうして十数年を母と私は寄り添い依存して生きてきました。

糖尿病の父親を看護したり介助していた苦労は今でも忘れられません。

 

本当に、お互いが支え合って、寒空に二人で外に放り出されたことも何回もあります。

 

私と母は

離れては生きていけない存在でした。

 

 

勿論私も働いてましたが、父親がろくに稼がないのですから、

その父親が病気になれば途端に生活は荒んで行きました。

 

そんなときに、無一文状態で兄は戻ってきて、母は兄を受け入れ、

父親の介助を兄が始めたりする日々がいきなり訪れるわけです。

(逃避行した相手やその子供についてはまた、いつか。)

馬が合う上に、最も自分に慈愛をくれた兄に、

母はあっという間に依存し、

私から離れて行き、私に対しての不満も言うようになり

 

 

......ここらも、いつか、書くとして

 

歪な親子関係は今に至ります。

母は当初家を出て兄と暮らすと言っていましたが、兄に甘えるだけでは一緒には暮らせません。

結局誰かと暮らすなら、喧嘩やいざこざは避けられない。

それは私と母でも同じのはずでしたが、結果的に

「兄とは争いたくないから、日中は兄の家に、夜は自宅に帰るので、一緒には暮らさない」

と言う選択をしたのです。

何故なら兄と摩擦は裕福に生きて行きにくくなる、

しかし、

私に対しての母はもう依存する相手ではなく「気楽に扱える存在」になっていたからです。

私と暮らして好きなときに兄と会う方が母には大変楽で好都合(良いとこ取り)なのです。

何回も、私に

「もうすぐ、お母さん出て行くから一人でやって行きなさい」と、

何年もかけて私に覚悟をさせておきながら、

(私はその度に一人で泣きました。ずっと依存していた相手だったから尚更でした。)

ある日突然、それを覆したのです。

 

私の数年の涙や怒りや悲しみや辛さが、

いかばかりか想像出来ますでしょうか。

 

結局、今になっても母は兄が最初であり、私には苦言を促し、

果たして、もう自分は愛されているか、好かれているか、自信はありません。

ただ、貴女(母)が好きなのは兄でしょ?

とは言い切れるのではないでしょうか(笑)

 

私はね、

母がいつか兄に引き取られ、離れ離れになったときは、

永遠の別れになるのをもう知っています。

 

兄はわざわざ私が母を訪ねるのを許さないのを知っています。

母もそう私に既に告げています。

でもね、

寂しくなるだろうけど、悲しいだろうけど、

私にはもうパートナーが出来ましたから。

 

これが15年前だったなら、絶望だけだったでしょう。

でも、もう平気です。

 

ようやく、私は個人になり、

親と(様々な愛憎を含めて)離れて自分ひとりで、

自分の事、その先の事、パートナーとの未来に足を踏み出す。

酷く遅い、自立なのでしょう。

母はもう私を離しているなら、

私もその時に親離れとなるのでしょう。

 

何故ならどんな形でも、私自身が母親を捨てきれないから。

どんな歪な形でも母親を愛しているのは変わらないから。

もともと、人の3倍~5倍は何事も時間がかかる私です(笑)巣立ちも親離れも、

きっとずっと遅いのなんか

今更なんですよ(笑)

 

兄がこれから別に働こうが、それで豊かになろうが、私には関わりの無いことです。

 

母が満たされるなら構わない。

と言う思いだけは、

恐らく、兄も私も同じなんですよ。

おかしな事に、これは血があるから分かってしまうんです。

なにせ、同じ父親から作られ同じ母親を見てきた兄妹ですからね。

これは別に良い話では有りません。

 

あらゆる兄と私達親子の

転機かも知れない今、記しておきたかった。

 

 

お目汚し、失礼致しました。