結局三回掛かったけど詳細省いてます、あとフェイクもです。
ちなみにその病院は健在であり、未だに恐らくあの時の職員もまだ健在でしょう。
余談だがあの病院の近くは通りたくない、怖いしトラウマだと知人に詳しく話したにも関わらず、知人は今も知らぬ顔でその横を敢えて通ってくれる。人の痛みはどうでも良く自分の痛みを矢鱈悲痛に語る知人だが、自分が(従業員の総意で)辞めさせられた職場(店)には、死んでも寄ってくれない。
話の続きを。
ナースルームの看護士さえ味方にはならないと分かったら絶望するしかないが、退院を促されたりするとも思えない。
そんなとき、新たな入院患者が入ってきた。十代高校生だった、自殺未遂でだ。(奇しくも私と同じ)人を突っぱねている険があったが、実は入院が2度目で、じきにまた退院すると言っていた。
1週間は検査入院するけど、親に話して、退院する。と話していた、勿論後の私の脱出のヒントになる。
その後、夜は眠れず、夜中に目覚め、焦燥感に院内をうろつく私は、医師たちからすれば、狂っている故だと理由付けになっただろう。薬が無いゆえに苦しんでいるとは思わないし、苦しくて蹲っていても、ナースルームから看護士が出てくることさえ一切無い、彼女達には患者を救う助ける気持ちは無い、狂人をあしらい適当に毎日を送るのが仕事だ。
自分達のやっていることが悪事や虐待だとは感じていない。
しかも悪事はストレス発散の手段であり、「普通の人間」と「異常者」を明確に隔て優位を示すのが快楽であるのが、顔見れば分かる、奴等は楽しんでいる。
月に一度くらいで作業療法士が来てリハビリ兼ねた作業をしたりする。絵を描く作業が楽しかったが、こちらが楽しむと2度目が何故か外される事があった。
また、レクリエーションゲームなどが開催されたりもした。
だが、私は参加出来なかった。
その頃には、一つの椅子に腰掛け十分すら座ることが出来ない程私の頭も体も思い通りにはならなくなっていた。
レクリエーション部屋から逃げて、廊下で屈みこみひたすら体を抱きしめ、焦燥と恐ろしさに小さくなった。(耐えた、のではない、最早絶えず恐怖に苛まれていたのだ、体を抱く程度であの孤独感と恐怖が治まるものか)
ある時、身体中をベルトで締め上げられた車椅子に乗せられた痩せたばあちゃんを看護士は部屋に運んでいた。そして、
「お前の小屋はここか~、どこだ~?(笑)」
と、笑うのを聞いた。
それを聞いたのがきっかけだった。
記録に残し、助けを求めなければと考えた。ノートに直ぐ様書き綴るが(ちなみに患者がペンを持つのは許可されない、おばちゃんグループの中の一番良くして貰ったおばちゃんがこっそりくれたのだ)ノートは鉛筆文字リハビリしてる人から貰った物だが、しかし腕は震え指は敵わない、下手な字で書くが、やる気が失われ頭がはっきりしない状態では短く記録するのみ。
(今、そのノートを読み返すが小学生低学年のような稚拙な表現と、短さだった。あの時はかなり頑張ったつもりだったのに)
そうして正月を病院で迎えた。
元旦前後は食事は若干贅沢になるのを皆は喜んでいた。
不思議だが入院してる人の九割が、退院しない、出来ないと言うのを受け入れている。この過酷な状態に馴染み、嘆きながら許容していた。
今思えばだが、大半の患者は、身元引き受け人から退院を拒絶されていて、或いは帰る家や家族が無い人だった。私が退院したいと話すと皆で不思議そうな顔をする。帰っても必死に生きていかなきゃならないでしょ?と言う。
飼い殺しを受け入れた人達は異質だが、院内では、病棟では私の方が異質だった。
正月前後は寒いに決まっているが、夕方に差し掛かれば寒さは増す、だが看護士達は気まぐれに暖房を切ったし、点けなかった。嫌がらせでだ。勿論楽しんで監視カメラで眺めている。
しかし、こちらの人もさるものだ。
狂人の許される怒声と大声で、
「暖房ー!!点けてーくださーーい!!」と、声を張り上げる(笑)
時間は掛かるが暖房が点く、それが毎日だった。
誰かが、「またあの地獄の夏がまた来る一年打ねえ」と話すのを聞いて、そうか、冷房も止めるんだな、ここの看護士は。と思った。
逃げなければ、と思った。
手が動くうちに、小さな小さなメモを書いた。病棟の虐待を少しだけ記し、
「一人のこの●●の人間を助けてください」●●=都道府県名
と書いたあと、靴下の中にそれを忍ばせた。
勿論後日来る面会の日に向かってだ。
(面会の部屋にはカメラがある、同時に時間の制限があり、患者が退院したいと泣きわめけば職員総出で抑える)
私はスリッパを履き直す振りをして母親に手紙を渡す、母は自殺しようとした私を信じるかは賭けだった。
病棟には電話があるが送信のみでテレカは職員に頼まねば貰えなかった、私はカードを返却せず、手紙は無事あの人に渡ったかを家族に連絡を取りたかったが、家族は留守が多くテレカのカウントを減らすばかりだった。
毎日泣きながら待った。
週1の血液検査の非情な血の抜きかたに耐えながら、家族と話が通じる日を待った。
そして、ようやく「明日、面会に行く」と兄と母と連絡をとる、勿論あの人も同伴だ。私は泣きながら「本当に本当に?」と「待ってる」を繰り返した。
次の日の面会までは長かったし、よりにもよってその日医師との診断の日でもあった。
医師は変わらずこちらを見ない、この人ブスだな、独身だなと思っていたとき、面会の放送が入ってきた、来たんだ!と思った。
結果的に私は無事退院ですよ、と病院のホールエントランスに出るまで死ぬ気で(正しく火事場の死ぬ気のバカ力)で、兄にしがみつき離さなかった。
ここまで、人を怯えさせる病院に、この子は預けられないと、その人は言って、兄は今すぐ退院です。と職員に冷静に対処したが、
ナースは「じゃあ、週末に」と、食い下がった。
あれこれ都合のいいようにするために。(暇なら、考えてみると良いでしょう)
しかしあの人は「いいえ、今日です、今すぐ退院させます、院長には話します」と言うと、ドアもナースルームも鍵が外された。
荷物をとっておいでと言われ、萎えていた足で全力で走る。
その瞬間、あの医師が見えたが、彼女は椅子ごと向こうを向いたまま、こちらを見返さなかった。逃げたのだ。
自室に戻り、さほど無い荷物を纏めようとしたら、ナルシストが近づいて来た。
今更だが、不安定になる私をナルシストは下に見ていたのは知っていた。ので、
「サヨナラよ」とだけ言い放ち、押し退け、棚にあった猫の写真集を持ち出すと、おばさんに会いに行った。
おばさんは何故か泣いていて、看護士さんが面会を勝手に断ったんだよと嘆いていた。
私は早口で、今からすぐ退院する、もう戻らないが元気で、この病棟の惨状は外に話すと言って、猫の写真集を渡した。
あげられるものは他に無かった。
おばさんは泣き出したと思う。だが、長くは居られなかった。
エントランスに降りたとき、通院や見舞いの皆さんの視線は異様だった。髪も眉も体もボロボロな人間がエントランスに居るのだ。
しかし視線は気にならなかった、惨状を見られたなら、ザマアだったから。
しかし
車に乗せられた後にすぐ、あの人に言われた。
「ここの事は誰にも言わず、体を治すことだけを考えてほしい」と。
つまり、病院の実態は訴えられない、癒着が何処かにあると言う事だ。
しかし、その時の私は頭は朦朧として薬切れで体は動かない、焦燥感を止められず話にもならなかった。
自宅に戻り、食欲が戻ったのは、自宅に残っていた薬を1週間飲み眠り続けた後であり、その後自殺未遂で迷惑かけた親友や友達に連絡したり会話したりに時間が掛かった。
ちなみに私の自殺を止めさせ、命を救ったのが今の親友であり、パートナー。
出れるはず無い時間帯に電話してきた彼女が、私の忌の際を瞬時に悟り、私の母親に連絡し意識を失った私を直ぐ様救急車に乗せろと命令した。(彼女は人に命令など絶対しない)
1ヶ月で通院していた馴染みのクリニックに戻り、生きることの再出発を始めた。
本当に簡単に纏めたらこんな感じだ。
いつかまた詳細を思い出すだろうが、暫くはいい、ただ、今でも間違いない虐待があることを伝えたかっただけだから。
そして、あの人とは
当然偉い人ですよ(笑)
間接的に知っていたし、本の少しだけボランティアの更に手助けしたくらいの間柄だけどもね(笑)
だけど、この人が居なきゃ、私はあそこから即日には出られなかった(癒着は未だに許せないが、今なら何とかならんかな)
先に退院した彼女が、親にさっさと頼んで退院するとヒントをくれたから、更に病院が頭が上がらない人に頼むしか直ぐには出して貰えないと考えたんだけどね。
週末退院とか引き延ばされそうになったとき、死にたくなるほど緊張したのも忘れてない。
自殺のニュースを見る度、私は被害者の気持ちに立つ。
そうせざるを得ない気持ちだ。
せめて理由は聞かせて欲しいと願う。
勿論私はそれをパートナーにとっくに告げている。(だから彼女は私の死を気取ったのだ、でなきゃ説明がつかないわよ)
鉄格子の向こうは人でなしの世界だ。
患者の事では勿論無い。彼女らは被害者であり
鉄格子の鍵をあつかう人間には、虐待の特権が与えられている。
(使うかは人次第であっても)