39~68~46kg その間に

欝までの、欝からの「自分を愛せ」るか。

取り敢えず簡潔明瞭合理主義にはなれない。

待ってました最新刊!出禁のモグラ

今回も漏れ無く共感しては涙が出たりしましたね。

 

被災地を題材にした映画の上映会にて、主催の方が「同情ではなく、共感して見てほしい」と、仰ったそうです。

何の作品でも、そうなのではないのか?

と思うのですが、

作品の捉え方はやはり人それぞれなのだと思いました。

(私は同情しながらは観たことがない、必ず共感が先にたつ)

 

無駄をムダと思わず利用する、とか

頭が忙しないとか、

生きたい人が早死にして、生きたくない人が苦しみながら生きている、

世の中上手く行かないが、皆それを分かっていて、それに対する対応の仕方が人生の分かれ目だ、

とか、

もう、頭振りかぶりぶり(笑)で、

かぶり付き、パートナーにネタバレしてました(笑)※了承済み

パートナーの市内の本屋さんでは「黄泉のツガイ」は売り切れてて、

そちらも了承の上でネタバレしました(笑)

 

パートナーは聞きたい話はネタバレ関係なく、ちゃんと「教えてください」と、言います。

 

パートナーと私の漫画の好きの好みは近く(パートナーのが遥かに博識だが)、話すのはとても楽しいです。

 

三番目くらいの物の方が手に入りやすいのは、身の丈だろうと私は思います。

勿論高望みしたり、意外に好みよりハズレても「手を打つ」みたいな言い方をする人もいる。(うちの長男がそんな言い方しかしないタイプ。大嫌いですよ。)

 

 

自らは昔から凄く高望みの面食いの癖に、

自分に言い寄ってきて、結局は付き合った上で出来婚した嫁に対して

「こいつがしつこいから妥協して結婚してやった(俺はまだ上を目指せた)」と言う皮肉な言い方をします。

その間の大切な(嫁との)過程すらも、「してやった、」と拒否された嫁や、

その末に(してやった、割には)無計画に三人も子供作っておいて、

酒飲みの病気抱えて亭主関白で、

子供たちは独立出来ず未だに孫も見れずに引きこもりの(病院行ってないので病気かもわからない)娘も抱えて、

まるで「自分の望みとは違う」と言う逃げかたをする。

それは余りにも無いでしょう。

 

理想高い上にプライドや見栄まで高いなら

 

目指して叶えればいいのに、それは出来てない。(叶わない)

その欲求は別の形で叶えたにしても、

現実は高望みは叶ってないのだから「こんな筈ではなかった」と、辛いままです。

だから他のせいにします。一番楽だから。

自分の欲求が高望みだとか、

身の丈にあってないとか、

自らは釣り合わない未熟な器だとか、

認められない「イヤイヤ」期真っ最中のままなのです。

これで三人の子供の親だから手に終えません。

 

良くクラスとかでも「三番目くらいの女の子がモテる」とか、

そんな話もありますが、実際そんな感じなんですよね。(笑)

 

高嶺の花には高嶺の理由がある。

かと言って自らを誰かを比較して、

「下」である人を選ぶのも、傍目から見たら最低な価値観の持ち主なのに、

 

世の中にはそんな言葉があっさり罷り通ります。

無駄をムダと思わず利用しなきゃ結局無能。

とは、正しい言葉だと思います。

まず、

 

あなたは

「ムダ」をきちんと「無駄」と書けるか、

その意味や違いが解るかから始めようかあ?

 

簡潔明瞭合理主義からすれば、

無駄な事ばかり考えては繰り返す自分は

無駄なことばかりしている役立たずな変な人だが、

それゆえ「変わったこと」を思い付きます。

常に頭が忙しいので、考えているからです。

 

その変わったことは、

無駄でもあるけど有意義になったり、

意外に納得されたり、人様の役にちょびっと立つこともあるのですよ。

 

ちょびっとだから、他人には「その程度」に過ぎないけど

その程度を出来ないなら、私はその人には「あっさり人を切り捨てる人」だと、評価があっさり着きます。

 

私は私が「変わりもの」である烙印を、小さいときから押されていたけど

 

昔はそれが理不尽で腹が立ったけど抗えずに惨めだったけど、何もかも全てが他者のせいでも無かったと思えるから、

今はそれは誇りに近いのです。

大体、私が変わりものじゃなきゃ、

パートナーには出会えなかったしね!(笑)

途中経過はまた詳しく記すこともあるでしょう(笑)

 

あの苛立ちや屈辱や悲しみや、どん底を擦り合わされた苛立ちを越えなければ、

出会えなかった。

この出会いが、あれをなめ尽くして、

考え直してから出直した、その先じゃなきゃ無かったと言うなら

 

 

こんなに、払ってよかったと

心から思える辛さは無かった。

 

未だに瑕は残っていて回想する度怒りが甦っても、今は自分を虐げた人をどうのこうのする気にはなれない。

何故なら私が誰より幸せにして貰ってるからさ(笑)

パートナーに。

 

こんなに幸せにしてくれる人は世の中にはまずいないですよ。

居ても同じくらい稀ですね。

 

あ、パートナーは三番目じゃなくずーっとずーっと高嶺の花ですよ。

私には勿体ないくらいに大切な人。

ずっと前から書いてますけどね(笑)

 

 

この人が私を選んでくれて本当に嬉しかった。

 

まあ、それはノロケだとして(笑)

 

話は変わり、少し昔の自分と重なったからたまたま観てしまった「三匹のおっさん」

 

(再放送ですよ)仕事前に観てたら

 

専業でも大丈夫な(しかし主婦業や家事は問題なくしっかりやれてる)おばさんが

パートに出て、辛酸を味わうものの、

彼女は新参である故の陰口や、同僚らのおばさんらから

あからさまな(若さ、綺麗さ、専業主婦の持ち物センスなど)妬みを受けてまして、

下を向いて辛くしていた彼女に、初めて優しい言葉をかけてくれたのが

それまではその職場で虐められる側だった人。

おばさんは彼女に「好い人」みたいな認定をされ(お陰で自分が虐められなくなったから)、お金を集られ、実際借り逃げされたりなどしてしまい、(要するに、おばさんには彼女は「優しい、初めて出来た友達」でも、彼女からしたらおばさんはただの「都合の良い人」)

 

辛い状況に染みる優しい言葉が必ずしも救いではない。

 

利用しがいのある人間は、ただ自分にとって便利な人間、使える人間だ。

その自分と間の差には「友情」など無い。

 

慣れないバイトの哀しみにくれていた専業だったおばさんには、声をかけ心配を少しでもしてくれた人は(実際は図々しく強かだ)「とても優しい人」になってしまう。

 

辛いときの甘い蜜は毒のように染み込んで麻痺させ、

「尽くす人」に成り下がりかねない。

これは、男女の間にも通用する。

 

まあ、この三匹のオッサンの落ちは

 

専業主婦の彼女には、商店街のコロッケ屋さん(誰かの悪口が好きとか、下には下を作らなきゃやってられない強かなオバサン連中の群れ)は向いてなくても

デザインや小物のラッピングのセンスなどは良かった。

(ので、向いている仕事を視野にいれることにして、勉強し、仕事を辞める

※と言うか頸になる。

「向いている仕事に就いた方が良い」と、一番怖いお局から後押しされた。

結局人は人を観ていて、どう捉え、どう扱うかは、ヒト次第。)

 

何にでも飛び付くのも悪くないけど、向き不向きや、人間や組織を見てからでもバイト選びは遅くない。

向いててもその職種が回りや近くに無いのなんて

あるあるだよね。

 

私も今の仕事始める前は、就きたい店があり(と言うか前職が調理に携わっていたから、裏方調理系列か、接客裏方が希望だった。)下見に客として出向いたものでした。

(結局、どうも若者が数人客の話で盛り上がってるのを見てしまい、諦めました。)

バイトを選ぶ事や、考えて面接や試験を受けるように薦めたいのは、

勿論経験から私はそう書いているのですが(笑)

 

 

そうですねえ、次は少し、仕事のことも記しましょうか。

 

勿論、若いときの苦い話ですけどね(笑)